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これが「教養」だ

 清水真木『これが「教養」だ』(新潮新書)は、近代社会の成立とともに生まれた「教養」というものが、現在一般に理解されているものとは随分かけ離れたものであったことを教えてくれる。

 近代市民社会の成立とともに、私たちの生活は、公共圏(政治)、私有圏(仕事)、親密圏(家族)に分断された。このことから生ずる「居心地の悪さ」を解消するために、「自分らしい」調整手段(哲学的に表現するとすれば、決議論的な問題解決能力)を身に付けることーこれこそが「教養」の本来の姿だったと清水氏は言う。

 こうした「教養」のあり方が、「人格の陶冶」を自己目的とする知的営みへと変化したのは、そう古いことではない。18世紀後半に起こったロマン主義の文学運動(疾風怒涛=シュトゥルム・ウント・ドラング)の中心人物であるヘルダーの影響を受けて、フンボルトが行ったプロイセンの教育改革が、「教養」の概念を大きく変容させた。また、日本では、明治39年から大正2年まで旧制一高の校長を務めた新渡戸稲造とその信奉者たちが、「教養主義」という考え方を打ち出し、それがその後の「教養」のあり方を方向づけることになる。

 平成3年に文部省(当時)が大学設置基準の大綱化を行って以来、「教養」とは何かという問題は、大学教育に携わる者にとって共通のテーマだった。その答えが見つからないまま、私は、法学部の教授から法科大学院の教授へと移籍した。法科大学院は専門職大学院のひとつで、もっぱら「実学」を教える場として位置づけられている。そもそも「実学」とは何なのか、「教養」教育を旨とする「虚学」とはどのような関係にあるのか。試験に出る知識を手っ取り早く習得しようとする学生たちを前に、悩みは尽きない。そんな私にとって、清水氏の著書は、「教養」と「実学」とを相対化する視座を与えてくれた点で、大変興味深かった。

 

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