動物化するポストモダン
講談社現代新書の『動物化するポストモダン』を読みました。わが国における「ゼロ年代」の思想家たちの中で圧倒的な存在感を示す東浩紀が、2001年に出版した本です。東といえば、『思想地図』や「ゼロアカ道場」が有名ですが、デビュー作は、言わずと知れた『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』(新潮社、1998年)で、1980年代に「ニュー・アカデミズム」という名の旋風を巻き起こした浅田彰をして「『構造と力』が完全に過去のものとなった」と言わしめたお堅い本です。その東が、アカデミズム的な批評の殻を破って颯爽と走り出すきっかけとなったのが、この『動物化するポストモダン』という大衆向けのベストセラーでした。
ごく大雑把に言うことが出来れば、70年代までのわが国では、まだ「大きな物語」(ジャン=フランソワ・リオタール/小林康夫訳『ポスト・モダンの条件』(水声社、1989年)参照)が信奉され、目の前にある「小さな物語」をこの「大きな物語」に繋げて見せるのが「学問」だと考えられていたように思います。
その後、連合赤軍事件を経た80年代のわが国では、部分的なポスト・モダンの現象として、「小さな物語」を通じて「大きな物語」を消費する時代がやってきました(大塚英志『物語消費論ー「ビックリマン」の神話学』参照)。オタク文化の始まりや、カルト宗教の蔓延などが、その象徴的な現象だったと言えるでしょう。
しかし、それもオウム事件によって見事に打ち砕かれました。そして今、急速なインターネットの普及と、それを中心に据えたクラウド・コンピューティングの時代を迎え、ポスト・モダンが全面的に浸透する状況に至りました。そこに見られる現象は、背後にあったはずの「大きな物語」が不要となり、単にデータベース化した「大きな非物語」が、即物的に消費されるといった姿です。そこに生息するのは、本能の赴くままに餌に群がる「動物」化された人間たちというわけです。
「動物化」という言葉は、もともとはヘーゲルの研究者であるアレクサンドル・コベェーヴの造語です。彼によれば、「歴史の終焉」後の人間が生きる道は、意味もなく腹を切る日本的なスノビズムか、アメリカ型消費社会にみられる「動物への回帰」しかないと述べましたが、東は、現代のニッポンの中にむしろ「動物化するポスト・モダン」を見出しました。
スタティックな差異の体系を重んじる社会から、ダイナミックな「差異化」の運動を通じて果てしなく過剰を生み続けることを肯定的に描ききった浅田彰の『構造と力』を、大学生の時にリアルタイムで読んだ私は、「真に遊戯するためには外へ出なければなら」ず、近代は「まだ十分に外へは出ていない・・・外へ出よ。さらに外へ出よ」という彼のメッセージを、気にかけ続けています。
東氏のおかげで、またひとつ迷路に迷い込みました(笑)。
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コメント
法律などにかかわらず
いろいろな本を読んでいらっしゃるのですね
知識の積み重ね方も
僕なんかとは違うのだな~(当り前ですけど。。笑)
と思います
アマゾンで買ってみます。。
ご紹介ありがとうございます!!
投稿: かわなべ | 2009年8月28日 (金) 05時52分
先生の、若者の気持ちを理解しようとする姿勢を感じました。
ただ、ややラベルを貼った感じの議論に感じるのは私だけでしょうか?
もちろん、お互いに相手をまったくの宇宙人と感じるよりは、分かり合うために手がかりを見つけるのは重要ですよね。個人的には、ここで議論がとまらないといいと思います。
ヲタク(私も含めてよいです)も、リアル世界で生きにくいから、虚構の世界とわかりつつ、そこにエネルギーを注ぐのでしょうから。虚しくとも、生きる手ごたえはそこにあるのだと思います。
やはり、人間の本質、生きる意味など、ヲタク文化の中にも、デフォルメ化され、現実にはありえない形となっていても、「萌え要素」そのものがヒントになるような気がします。
投稿: ちあい | 2009年9月18日 (金) 10時46分