ニッポンの思想
佐々木敦氏の『ニッポンの思想』(講談社現代新書)を読みました。1980年代から90年代を経てゼロ年代に至るまでの日本の思想について、その変遷を分かりやすく通覧した本です。
筆者は、自らのことを、カルチャー/サブカルチャーを主な対象として批評活動を行っている評論家であり、「ニッポンの思想」の担い手でもなければ専門的研究者でもないと述べていますが、リアルタイムで沢山の思想本を読み込んできたことがわかる力作だと思います。
まずは、浅田彰、中沢新一を中心に、いわゆるニュー・アカデミズムとは何だったのかを分析した後、同じく80年代の思想家を代表する蓮實重彦、柄谷行人の主張が解明されています。その上で、90年代の主役である福田和也、大塚英志、宮台真治の活動が紹介された後、ゼロ年代ではなぜ東浩紀の「ひとり勝ち」になったのかを検討しています。
同じ時代に生き、同じように彼らの思想に興味を持ってきた者として、佐々木氏とは異なる「読み方」をしてきた部分もありましたが、全体として、分析は明快で、なるほどと思わせる興味深いものでした。
「あとがき」によれば、佐々木氏自身、『未知との遭遇』というタイトルの思想書を準備中とのこと。今度は、思想の単なる「読者」としてではなく、思想家としてどんな力量を見せてくれるのか、今から楽しみです。
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コメント
前回、『動ポモ』の記事にコメントしました。本書(323頁)を読むと、東氏は「萌え」のみにとどまらず、広い視野で検討を進めておられるのですね。
長文で恐れ入りますが、一言。「大きな物語」の背後には、「当たり前」の強制が潜んでいるような気がします。「当たり前」は「感謝」の反対概念です。
近代の理性万能主義は、発展途上においては、理性による管理・統制という面で機能しました。しかし、権威が失墜しつつある今、「大きな物語」にはかつてあった報酬の分配(長者の責任)がなく、期待する者はエネルギーを吸い取られ、犠牲(燃え尽き症候群)となって行く気がします。
理性から感性の時代へといわれますが、一人一人思いは違うし同じ事実でも見え方が違います。
だからこそ個人の尊重(違いを認め合い、楽になる)し、その上で人間固有とされる社交性(東氏はこの点の欠如をオタクについて危惧していたのですね)を発揮するのがよいのかなと思いました。
鳩山総理の述べる「友愛」が、差異を認め合い、当たり前でなく感謝しつつ歩みよるものであるものであれば、世の中がよくなる気がします。
いろいろ考える機会を与えていただき、野村先生には感謝しています。
投稿: ちあい | 2009年9月21日 (月) 20時52分
追伸
何度もすいません。
私は感性万能といっているわけではないことを付言します。
他人を感性的に理解するための限界は、6,7人と思われます。
「チームワーク」という関係性は、せいぜい5~7人くらいが限界(勝間和代『断る力』283頁)らしいですから。ヨン様も倒れるご時世ですからね。
野村先生も、ご自愛ください。
また、その限界ゆえに、人間は理性に頼らざるを得ないのでしょう。
「普通に考えて、1人の先生が40人の生徒を相手にするなんてむりだよね。みんだだって、40人を相手にコミュニケーションをとるなんてできないでしょ?」(ミスターGTーRこと水野和敏『16歳の教科書2』ドラゴン桜公式副読本より)ということだと思います。
ただ、そこに役割分担以上の当たり前の強制があると、上下関係が構築されて、下位者は不幸となるし、寂しさのあまり薬物に手を出すとか、多面、上位者も面従腹背により粉飾決算の見過ごしとなったりとか、不幸が始まるのかなと考察しました。
野村ゼミが、6つのグループに分けて行われるのは、先生が学生を感性的にできる限り理解しようとなされていたのだなあと勝手に思ったりしています。
他人の土俵で一人相撲をとっててすいません(汗)
投稿: ちあい | 2009年9月23日 (水) 17時30分